Story

デザイン会社「necco」の創業物語

なぜnecco(根っこ)なのだろう?どうして会社をつくったのだろう?誰が会社を創業して経営しているのだろう。そんなことに答えるため。このページにneccoの創業物語を私(代表の阿部)自身の言葉で赤裸々に書いていこうと思います。

「お前のせいで負けた。本当にお前がうまいならできないやつをできるようにできるだろ?それがわからないか?」

私の創業魂はここから始まりました。これは私が小・中と所属していたサッカークラブチームのコーチの言葉でした。サッカーを始めたのは小学生4年生で、サッカーをはじめるには少し遅いスタートでした。毎日ただひたすらに練習しました。宿題と進研ゼミをこなし、その後そろばん塾にいって、ご飯をたべて1人でボールとコーンを持ち出して首都高の下にあるフェンスで囲われた公園でドリブルしたりひたすらボールを蹴る壁打ちをしていました。水曜日は水泳、土日の午前は野球、午後はサッカーの練習か試合という休みのない小学生でした。

練習のかいがあって少しだけ上手になって、中学生の部活とクラブチームではキャプテンになり、攻めて守って、パスを出す、自分でも点をとりにいくポジション、トップ下のミッドフィルダーになりました。東京都江戸川区の選抜にもなりました。

すこし上手くいったからかとにかく中学3年生の私は空にとびあがるほど浮かれて調子にのって、自分が一人でだけいれば試合にも勝てるくらい思っていました。ですがある大会の準決勝で私が一人でドリブルをしていて、パスも出さずボールをとられカウンターをもらって点をとられて負けました。自分以外はだれも信じてなかった。他人を簡単に否定して、ずっと馬鹿にしてた。そのときに言われた言葉が「お前のせいで負けた。本当にお前がうまいならできないやつをできるようにできるだろ?それがわからないか?」です。

もうボロボロに泣きました。11人のスポーツのはずなのに、少しだけ周りより上手いから、評価されてキャプテンになったから、選抜になったからとただ一人よがりを全力で決め込んでいました。そんな時に、試合に負け、この言葉をコーチに言われてやっと気がつけました。

「そうか、本当にうまい人はまわりのこともうまくすることができるのか。」と思い。それまでの考えがすべてかわりました。その後はチームメンバーとも関係は良好になりクラブチームの大会で準優勝(たしか優勝ではなかった。人生だ。)しました。

教えることと、技術を伝えること、自分ができることは違うかもしれない。でも本当にうまいとはなんなのか?試合にどのように勝つのか?を考えるきっかけになりました。自分だけの個人ではなくチームで、監督やチームメンバー全員で試合に勝たないといけない。

そんなことを学んだ小・中学生でした。

「才能はある、でも残念だけどプロにはなれない。自分の学力で行ける限り、頭の良い高校に行きなさい。」

舞い上がっていた中学3年間もつかの間に部活も終わり、クラブチームも受験の少し前には最後を迎えます。クラブチームの最終日あたりに「才能はある、でも残念だけどプロにはなれない。自分の学力で行ける限り、頭の良い高校に行きなさい。」とこれもクラブチームのコーチから言われた言葉です。

当時の阿部少年は、部活やクラブチームのメンバーが行こうとしている少しサッカーは強いけど、学力的にはそこまで高くない高校にみんなで一緒に行こうとしていました。ですが、小学生からだいぶ勉強をして、中学でも勉強をかなりしていたほうでしたので、都立高校の上のほうは狙える学力でした。それをコーチを知っていたのでそのように言われました。

当時は学力に関係なくただサッカーをしたい、もしかしたらプロになれるかもしれないとぼんやり思ってる少年でした。そこをスッと見破られコーチ言われました。

疑いようもなく、次の高校3年間も周りのみんなと一緒にサッカーをするものだと思いこんでいたんです。一人でどこか違う高校を選ぶ選択肢はもっていませんでした。

よく考えたらすぐにわかりました。区選抜にはなれた、だけどあきらかに区選抜の中でも上手い人がたくさんいました。区選抜にいるとうことは都選抜にはなれなかったということです。少し考えれば誰でもわかる。本当にプロになる人は都選抜だったりプロクラブチームのユースに入っていたりします。それにまたハッと気づかせてくれたのはクラブチームのコーチでした。

15歳の自分にはあまりに淋しくて、孤独でしたがそこからさらに猛勉強をはじめます。一人の道を選んだので中途半端なところに行ってはいけないと思ったんです。もてる限りの力で上を目指そうと思いました。

勉強のかいあって、トップ高校には届きませんでしたが進学校である東京都立小松川高校に進学することになります。

勉強とサッカーの日々からバンドと音楽づくりに明け暮れる日々に

中学3年夏からはとにかく勉強をしていたので高校に推薦であっさり入れてしまったことにも驚き、全く勉強をやめてしまう高校生ができあがりました。中学1年生からはじめていたアコースティックギターとMr.Childrenとスピッツが好きすぎて、勉強を一切やめてバンド活動にあけくれます。ついには音楽理論を高校の授業中に教科書に隠して読み漁り、音楽を学び自分で音楽をつくるようになります。

オリジナルの音楽とMr.Childrenの音楽をバンドでやって、文化祭などでは大変なモテぶりでした。これが私のモテの全盛期。

音楽がとにかく好きでOasisに出会った衝撃は今も忘れません。1997年8月21日に発売されたオアシスの3枚目のオリジナルアルバム「Be Here Now」。そのアルバムを地元の電気屋の視聴機でアルバムの1曲目である「D'You Know What I Mean?」を聴いたときには体に電撃が走ったようでした。それまで洋楽は聴いたことがほぼなかったのでこの世にこんなかっこいい音楽があるのか?とあまりの衝撃の嬉しさと知らなかったことの落胆、なぜ誰も教えてくれなかったのかという怒りとともにその後Oasisをひたすらに聴くことになります。そこから同年に発売されたBlurの「Blur」というアルバムも大ヒット。両バンドを中心にデビューアルバムに遡ったりなど、UKの音楽をひたすら聴くようになりました。

当時はOasisとBlurは大変に仲が悪そうでしたが私はどちらの音楽もあまりに好きでどちらも聴いていました。

あまりに好きすぎて音楽の授業ではOasisの「Don't Go Away」を弾き語りして試験を受けるほどでした。

このあたりからアルバムのジャケットやデザイン、言葉などをたくさんみるようになったのだと思います。洋楽のアルバムには必ずあとがきがありそのアルバムのアーティストがどのような影響を受けたか、どこで育ったかなどが書いてあり、そこから芋づる式に他のバンドに巡り合っていきます。そのような出会いがまた洋楽の魅力の一つだったような気がします。

当時の外国の現地の文化だったり空気みたいなものを言葉から感じ取っていました。英語の曲をずっと歌ってた。そんな高校生でした。

音楽を聴くだけでなくつくっていたので、音楽の聴き方も特殊になっていったのをよく覚えています。左のギターだけ、右のだけ、真ん中のだけ、ドラムのバスドラだけ、ハイハットだけなど音を分割して聴くようになりました。当時アルバイトして購入したMDで録音する4トラックのMTR(マルチトラックレコーダー)を買ってスタジオに持っていて自分で録音をはじめました。ドラムはステレオでマイクに2本立てたり、ギター・アンプの前にマイクを立てたりなど。録音そのもの自体にとても興味があり、自分で曲をつくって楽譜に書いて、バンドメンバーに演奏してもらってり、一緒にフレーズを考えたり、録音したりなど。今思えばあまりに青春です。高校3年生になるとライブハウスに出演するようにもなりました。

オリジナル曲が数曲できたのでスタジオで録音して自作のCDなどもつくりました。